旧街道は涼しい
新居浜市萩生で旧街道に入った。国道とそんなに違わないと思っていたが,考え違いだった。勢いよく走り抜ける自動車がほとんどなく,静かである。静かであることがこんなに気持ちにゆとりを持たせてくれるのか,と新しい発見をした。日陰もところどころにあって涼しいのだが,静かであるということが落ち着きと涼しさをも呼んでくるのである。
計画では
伊予土居駅まで約25kmだった。そのつもりで歩き出した。暑い日になりそうだったし,出るのも6時過ぎと遅かったので,そのぐらいが適度だという判断だったのである。結果論を言えばこの判断は正しかったのかもしれない。
歩き続け,四国中央市に入る頃に考えが揺らいできた。
「この調子なら,行けるかもしれない。」
「昼過ぎに伊予土居に着いたとして,あと12km,5時までなら余裕で行ける。」
「いや,無理をしてはいけない。昼からの歩きはきつい。暑い日はとくに。」
「このペースで行けば,伊予三島駅に4時ぐらいに着ける。どうしよう。」
「12kmを途中でやめるわけには行かないから・・・。」
この頃,右足の第1指の付け根が痛くなってきていた。まめができていたのだ。足の裏をずうっと警戒していたので,意表を突かれた感じになってしまった。それでも痛みはあるがまだたいしたことないとも思っていた。
決めたのは伊予土居駅手前1kmの地点。
「よし,行こう。もう今日で終わり,どうなってもかまわない。」
歩いていると確実に前に進んでいく。目標は少しずつ近づいてくる。通り過ぎれば目標はもう目標でなくなる。次の目標に向かって,頑張る。
伊予土居駅を通過したらもう振り返らない。あとはどうなっても進むのみである。伊予三島駅まで合計で37km,1日で歩く距離,今回の区切りへんろのうち最長になる。
2者択一
ー神のみぞ知るー
旧街道の静かさとゆとりをとるべきか,国道のわかりやすさと近さをとるべきか,2者択一で私は後者をとった。
すると,すぐに「おへんろさん休憩所」に遭遇。大型扇風機が置いてあり,水道水と塩飴のお接待。建設会社?の施設だった。暑くてしばらく休憩していなかった私にとってまさに恵みの楽園になった。
関係者と思われる会社の人が車で来た。
「扇風機ついてないですね。つけましょう。塩飴,いっぱい持っていってくださいね。ただ,1個食べたら,水をしっかり飲んでください。写真撮らせてもらっていいですか。」
どういうところで使うのだろうか,私の写真を撮っていった。
「扇風機,そのままつけたままにしておいていいですからね。」
この2者択一はどうだったんだろう。正解だったのだろうか。私としてはずいぶん助かった思いがするのだが,旧街道の方を選択したら,もっといいことがあったかもしれないのだ。結局わたしたち人間はどうあっても2つのことを同時に体験して,比較することはできない。
神のみぞ知る,とはそういうことなんだろう。
車の女性からお接待
突然止まった車。対向車線である。
「おへんろさん,待って。」
ドアを開けてこちら側に走ってくる。トラックが来ていて危うく事故になりそうだった。
「おへんろさん,これ持っていって。」栄養ドリンクをいただいた。
「握手してください。」
私のようなものに,キムタクじゃあるまいし,握手なんてもったいない。へんろというだけで大切にされたり,尊敬されたり,そんなことが事実としてある。そのことを自分としてどう消化するか,まだ結論が出ない難しい問題だ。
歩ききった37km
伊予三島駅に午後4時35分到着。37kmを歩ききった満足感をいっぱい味わうことができた。駅のキオスクで買ったコーヒーゼリーを駅のホームで飲んだ(食べた)。冷たくて甘くておいしかった。
ベンチに座って,靴を脱ぎ靴下を脱いで足を解放した。気持ちもプレッシャーから解放されたようで,心地よい疲れが全身を包み込むようだった。
今回の合計歩行距離,273.7km。満足。
瀬戸大橋から雑感
今年のへんろはいろんな出会いがあった。
26歳の若者,落ち着いた京都の青年,坂本屋の相原さん,野宿のゆっくりおじさん,自転車へんろのみなさん,健脚社長,スペインの女性,220回のHさん,快速女性のHさん,引きこもりの高校生とおじいさん,コーヒーをお接待していただいたご住職,などなど。
みんな私の小さな世界を打ち破るすてきな人ばかりだった。
涼しかったためか,歩きすぎてしまった。
前半はくもり,ときどき小雨。調子よく歩けたが,体が持つ代わりに,足に負担が来ていたようだ。でも,後半は暑かった。
瀬戸大橋から雑感2
明日のことはわからないんだから
本当は宿の予約なんかしてはいけないんだ。明日は明日が心配する,と仏陀も行っている。少なくとも,今日とか明日,宿がとれるだろうかと心配することは,無駄なことなんだよ。今日は今日やることを精一杯やって,それからあと,宿が必要なら段取りすればいい。そうでなくて,今やることを中途半端にしておいて,未来の心配をする。それは,仏陀や仏教の教えに反することなんだ。
自分はそういうことがまったく実行できない。未来の心配事をいっぱい抱えて,頑丈な鎧でいつも武装している。
彼女は違っていた。
「今日は全然歩いていません。このあたりで終わろうかしら。」
彼も違っていた。
「45番まで行ってみようと思います。あのあたりで泊まるところがあればいいのですが。」
彼も
「昨日はバス停でした。今日はさっきここの通夜堂,OKをもらいました。」
みんなその日を精一杯生きている。その次の心配事は,その次なんだ。へんろとはそういう生活なのかもしれない。私だけだろうか,そうでないのは,こんなところまで来てわかっていないのは。
自分まず安全地帯に置いて,それからいろんなことに関わろうとする。安全な檻を築いてから,その中だけで闘おうとする。いつでも逃げ込めるように檻を用意しておくんだ。
そういう人生スタイルが身に付いてしまっている。染み込んでしまっている。失敗を恐れ,本意を捨てて妥協する。そういうことの連続だった。それが私の人生。
いつからだ。
まわりの雰囲気に合わせて自分の牙を見せないようにする,今でもそうだ。大勢には逆らわないようにしてきた。他の人はどうなんだろう。